始めの一歩

それは2006年の・・・いつごろだったでしょうか。
はっきりは覚えていません。
私は母と、実家の側のロイヤルホストでお茶をしてました。


5月の名披露目の「文売り」の舞台以降、
母はすっかり、私が日本舞踊を続けることに
不快感をしめさなくなり、
それどころか、むしろ、周囲の人に
「この子ねえ、藤間流の名取なんですよ」と自慢げに
話すようになってくれました。


仲良しの母子に戻った私たちはおだやかにお茶をしてました。


何の話の流れだったかも、覚えてません。


ただ、それは、母がふと漏らした
この一言から始まったことであることは、はっきりしています。


「あーあ。一度でいいから、もう一度、
おっきい舞台で、小唄が唄いたいな。」


母は、女優の仕事の傍ら
19歳で小唄、春日派の師範名取になり、
春日とよ昌之の名前で小唄のプロとして活躍していました。
雑誌「邦楽の友」の取材を受けるほどの唄い手だったとのこと。
その頃を知る親戚や近所のおじ様たちから
「そりゃそりゃ、理恵さん(母)の小唄には、しびれたよ〜」
と聞かされたものです。


しかし、結婚、出産を経て、次第に小唄の世界から遠ざかり・・
数年に一度、親戚の結婚式や、
なにかのイベントなどで唄うだけになっていました。


長年のブランクがあるものの、
母の唄には、人をひきつける「何か」があるのは
素人の私が見てもわかり、母がイベントで唄うたびに、
姉と私とで、
「ママ、もったいないね。お稽古しなおして、
またお弟子さんとってお師匠さんになればいいのにね」
と言っていました。


しかし、店の経営に忙しい母は
「本気で小唄をやる余裕はないわよ」と
私たちの言葉に耳を貸すことはありませんでした。


その母が
「もう一度、大きい舞台で唄ってみたい」とつぶやいた・・・。




もしかして。
私は。



今まで出来ていない、「親孝行」が始めて出来るかもしれない。



私の胸はざわざわとざわめきました。



その翌週。私はお稽古場で師匠に相談します。



母のつぶやきを、師匠にお話しました。




そして・・・
「来年の浴衣浚いで
母の唄で私が踊る、
そんなことは実現できますでしょうか」と
たずねたのです。




師匠は、にっこりと微笑まれ、こうおっしゃいました。
「いいじゃない。おかあさんの唄であなた、一曲踊りなさいよ。
小唄の振りはいくつかうちにもあるけど
振りがない曲を唄いたいなら、、僕が振りを作ってあげる。
あなたのご家族もご親戚も、おかあさんのお店のお客さんも
みんな喜ぶでしょう。
そういう、みんなが喜ぶイベントがあっていい。
やりましょうよ。」



師匠のお優しさが身にしみました。



私が日本舞踊にのめりこみ、名取になるに至って、
母と私の間で起きてしまった確執について
師匠はよくご存知でした。
特に、私が名取になることが原因で、
大きな喧嘩をしてしまった時には、
「おかあさんに、僕から一筆、書いてあげようか?」とまでおっしゃり、
私たちの親子関係がよくないことについて
とても心配してくださってました。



また・・・私は・・・・・この年になっても・・
母に何も・・何も親孝行できてない・・・
私がテレビの世界で、有名なスターになることを
何より望んでいた母。
私はなんとかかんとかテレビの世界には入ったけれど、
「有名なスター」にはなれなかった。
私の力不足で、ついにその母の夢もかなえてあげられなかった。
そして母の理解できない世界(日本舞踊)に身を投じ、
母から離れていった・・・。



自分のことに精一杯で、経済的にも、
両親に対して、何も援助できない。
忙しくて店を手伝ってあげることも出来ない。




何もしてない。何もできてない。




そんな
何も出来てない私が。




たったひとつ。
今、唯一できること。



今も「芸事」に情熱をそそぐ、不肖の娘が出来る
唯一の、唯一の親孝行。




それは、母の中に眠っている
「芸」の情熱と才能を、
開いてあげること。




母が、私がのめりこむことを嫌った「日本舞踊」。
その、「日本舞踊」で、母に恩返しが出来る・・・・!




「うちの先生が、ママの唄で踊っていいって!
ママ!舞台で唄えるよ!」



母は大喜びし、
「どうしてももう一度唄いたい」という
「沓掛時次郎」(演歌ではありません。春日とよさん作曲の
れっきとした春日の小唄です)
が演目に決まりました。
長さも、小唄としては長く(小唄は普通2、3分)
6〜7分あるので、踊るにも十分です。



「沓掛時次郎」のカセットをなんとか入手し、
準備を進めよう・・・というところで
問題が一つ発生。




小唄は基本的に弾き語りが主ですが
母は唄は上手いのですが三味線が不得手。
三味線を弾きながら唄う自信はないとのこと。



三味線演奏の方を探さなくてはならない・・・。




母が自分のお師匠さまに相談してみる、ということに
なっていたのですが、
母のお師匠様はかなりのご高齢であり、
いろいろ事情があり、それも難しく・・・。



さて果てこまった。



この三味線方が決まらないために
母の気持ちがだんだんと・・・・意気消沈してきてしまったのです。


「だめかもしれないわね・・・・・」


母がすっかりしょんぼりしてしまってることを
私は師匠にお話しました。



「せっかくの先生のお気持ちだったのに・・・・
当の本人がしょんぼりしてしまって・・・
実現できないかもしれません・・・」



「それならしかたないね」と、
師匠はおっしゃるかと、思ってました。


しかし、師匠はこうおっしゃったのです。
「もう少しがんばってみようよ。
せっかくだもの。実現しようよ。」



この師匠の優しいお言葉に、
私の心に火がつきました。



三味線を弾いてくださる方は、
私が探す・・・!
私が依頼する・・!



その燃えた火の中で、
浮き上がったお名前がありました。



それは、ネットを通じてお知り合いになった
江戸端唄のお師匠様である「笹木美きえ」さん!
(HPのリンクページにも紹介させていただいてます)



でも・・ネットを通じて・・ほんの少しのやりとりをしたことがあるだけ・・・
お会いしたことも、記憶では2度くらい・・・。



そんな縁薄い私のために・・・
こんな依頼を聞いてくださるだろうか・・・・。



勇気を出して美きえさんにメール。



なんと!すぐさま、美きえさんからお電話を頂戴しました。





「私でよければ喜んでお引き受けしましょう」




・・・・!涙が出るほど嬉しいお返事でした。
人の縁て・・人の出会いって・・・・
なんという・・・・なんというものなんだろう・・・!



師匠の優しさと、美きえさんの優しさ。
すべてが合わさって、
母を舞台に出す夢、
そして、母の唄で私が踊る夢、
それらすべてが、実現することとなりました。



ともに「女優」の道を歩んだ母子ですが、
初共演は、



春日とよ昌幸
藤間絢也

互いの名取の名前で・・・。



なんとも・・なんとも不思議で・・・そして・・
・・・感慨深いです。



しかし、8月18日を迎えるまで
「これ」にかかわる全ての人々にとって
なかなかどうして、大変な日々となりました。



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